はじめに
私たちは日々、自分や他人に対して様々な「言葉」を伝えています。この「言葉」という漢字には、興味深いことに「葉」という字が含まれています。その理由について、しっかり調べてみることにしました。せっかくなので、ゆかりの地として知られる。静岡県掛川市にある「事任八幡宮」にも足を運んできました。
辞典の解釈
まずは、日本国語大辞典で、「言葉」を調べてみると以下の通りの語源説となっておりました。
(1)コトハ(言端)の義〔名言通・大言海〕。
(2)コトノハ(言葉)の義。ハ(葉)は言詞の繁く栄えることをいう〔和訓栞〕。
(3)コト(事)から生じた語。葉は木によって特長があるように、話すことによって人が判別できるということから〔和句解〕。
(4)コトハ(心外吐)の義〔言元梯〕。
(5)コトは「語」の入声Kot で、語る意。バは「話」の別音Pa の転〔日本語原考=与謝野寛〕。
日本国語大辞典
『世界大百科事典』によれば、元々「ことば」という言葉は「こと」という単語から派生したとされています。この「ことば」という言葉が広く使われ始めたのは、7〜8世紀頃だと考えられているようです。
語源の解釈
上記からも、「言葉」の語源は「言(こと)」と「端(は)」の組み合わせから来ていると考えられています。「は」という言葉は「年のは」「山のは」などにも見られるように、「最先端」を意味する言葉です。したがって、「言葉」とは「言の端々」、すなわち「言葉の最先端」を意味すると言えます。
歴史的には、「言」の用例は『古事記』や上代歌謡の時代から見られ、『万葉集』においても頻繁に使われていました。特筆すべき点は、『万葉集』の時代において、「言」と同音の「事」とがほぼ同義的に使われていたという事実です。万葉仮名、つまり『万葉集』の用字法においては、「言」と「事」の漢字が共通して用いられていたのに対し、「異」と「琴」には異なる漢字が使われていました。
この事実は「言は事なり」とする古代日本人の思想を反映していると解釈されます。言葉によって表現される事柄は、その人の考えや行動の核心を表すという考え方が根底にあったのでしょう。
上代、特に奈良時代の人々にとって、「言」と「事」は深く結びついていました。彼らは言葉を発することが、現実の出来事を引き起こす力を持つと考えていたようです。この発想は、言葉と行動が密接に関連しているという古代日本の思想を反映しています。彼らにとって、言葉は単なる表現手段ではなく、現実を形作る力強いツールだったのです。たしかに、七夕の短冊・神社の絵馬・祈願等で、言葉を伝えるという文化は、今だに残っております。
事任八幡宮
静岡県掛川市にある「事任八幡宮」は、言の葉で事を成す神様を主祭神とする、日本で唯一の神社です。この神社は、願い事が事のままに叶うとされ、『枕草子』にも登場するほどの歴史を持っています。創建は成務天皇の治世に遡り、807年に坂上田村麻呂によって現在地へ遷座されました。1062年には八幡神が勧請され、名前も変遷を遂げました。明治時代以降は県社として知られ、戦後に「事任八幡宮」として復活しました。多くの信仰を集め、近年ではパワースポットとしても注目されています。以下は、ゆかりの和歌となります。
冷泉大納言為久
「大井川けふのわた瀬をさしておもふ ことのままにと祈る神垣」
忍ノ十郎
「ねぎことの ことのままてふ言の葉を かけて久しき宮居なりけり」
前ノ河内守親行
「ゆうだすき かけてぞ頼む今思ふ ことのままなる神のしるしを」
源光行
思ふことのままにかなへば杉立てる 神の誓ひのしるしとぞ見ん」社の後に小川をわたれば佐夜の中山にかかる。
鴨長明
またも来ん わがねぎことのままならば、しばし散らすな木々のもみじ葉
名著の解釈
ちくま文芸文庫の「言葉とは何か?」とは根源的で、正解のないこの問いに真正面から取り組んだ、もっとも明晰な入門書です。記号学・言語学研究の第一人者である著者が、言葉という永遠の謎に迫る。言葉はものの名前ではない。“表現”であり“意味”である。では“意味”とは何なのか?―ソシュールをはじめとする言語学研究の軌跡を紹介しつつ、具体的な例を駆使し、平易な語り口で、伝えがたいことをできるかぎり噛み砕いて解き明かしてゆく一冊(参考: Bookデータベース)
どの仕事にも共通しているのは自分の仕事の中に精神的な毒を入れないということです。
僕はあまり教訓的なことは好きではありません。お話はできるだけ面白く娯楽的であるほうがいいと思っています。しかし面白さのために毒はいれません。
なぜなら精神的栄養になる子どもの時の絵本や音楽は身体を流れる血液と同じだからです。
(出典:もうひとつのアンパンマン物語)
おわりに
以上となります。いかがでしたでしょうか?言葉は、私たちの精神と現実をつなぐ橋渡しです。私たちが用いる言葉や物語には、毒ではなく栄養を含めるべきです。面白さと娯楽性を追求しながらも、精神的な公害を避け、子どもたちにとって純粋な喜びと学びを提供することが大切です。言葉はただ伝えるためだけでなく、人々の心に深く影響を与える力を持っているのです。また外来語とは、母国語に翻訳することができたとしても、その言葉の背後にある背景・価値まで同意義とすることは不可能です。私たちは、その点も注意して言葉を扱わなくてはなりません。
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